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千駄ヶ谷の新将棋会館がイマイチ好きになれない話

 千駄ヶ谷の新しい将棋会館は綺麗だ。

綺麗なカフェがあり、綺麗なショップがあり、建物も綺麗で明るく開放的で、いかにも「現代的」だと思う。

たぶん経営的にも正しい。
将棋を知らない人でも入りやすいし、写真も撮れるし映えるし、
将棋という文化を広く届けるという意味では、一定の成功なのだろう。

それでも私は、どうしてもこの施設が好きになれない。

縮小された将棋道場スペース

将棋道場という場所には、不思議な人間関係がある。

名前も年齢も職業も知らない。
感想戦以外では会話を交わしたことすらない。
それでも「どんな将棋を指す人か」だけは知っている。

終盤になると急に鋭くなる人。
とにかくしつこく受けまくり、なかなか崩れない人。
研究手順を淡々と再生するような人。
負けて泣いていると思えば、ひと夏超えて急に強くなる子供。

盤を挟めば、その人の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
将棋道場とは、そうした無言の交流が自然に成立している、極めて特殊な空間だった。

旧将棋会館の道場には、間違いなくそれがあった。
名前は知らないがいつもいる人、この時間帯は強い人が多いとか、今日は静かだとか。
連敗すると何も言わず帰っていく人、勝っても表情を変えない人。

誰もルールとして教えてくれないのに、 そこに通っているうちに、少しずつ「場の文脈」を共有していく。
それは不便で、古くて、効率が悪い。
でも、その積み重ねこそが、将棋道場を将棋道場たらしめていたのだと思う。

場所を失った将棋ファン

新しい将棋会館の道場は綺麗だ。

清潔で、明るく、分かりやすい。
しかし、そこには「居続けるための余白」がほとんど無い。

入場時間制限があり、周囲は騒がしく、どこか「利用して、終わったら出ていく」場所になっている。

確かにそこで将棋は指せる。
けれど、将棋を通じて人を知ることは、難しくなったように感じる。

以前、高齢の将棋ファンが 「新しい将棋会館道場には行かなくなった」と、少し寂しそうに話しているのを聞いたことがある。

道場のスペースが狭くなり減ったこと。
周囲が騒がしく落ち着かないこと。
長く居られないこと。

それは単なる不満ではなく、「自分の居場所がなくなった」という感覚だったのではないかと思う。

道場の客は金を落とさない

将棋道場はカフェのような収益が見込める施設ではない。

 勝ち負けだけでなく、 空気を読み、他人の将棋を盗み見て、 自分がこの世界のどの辺りにいるのかを知れる場所だった。

それが失われたとき、どれだけ立派な建物が残っても、何か大切なものが欠けてしまう。

新しい将棋会館が悪い、とは言えない。
時代が変わったのだと思う。
将棋もまた、消費され、分かりやすく提示される存在になった。

それでも私は、名前は知らないけれど、将棋だけは知っている人たちが居た、
あの旧将棋会館道場の空気が、確かに好きだった。

綺麗な建物に、綺麗な道場。
理屈では納得できる。
それでも、心のどこかで受け入れられないまま、今日も私は別の場所で将棋を指している。