「月姫」との出会いは鮮明に覚えている。
秋葉原のジャンク通り、路面店。
当時は新品のPCを買うお金もなく、
格安パーツを買い揃えて自作したWindows MEのPC。
路面店に積まれていたのは、印刷もされていないコピーディスクの月姫。
正規品かどうかなんて気にもしていない。
掲示板で話題になってた記憶を思い出して、なんとなく手に取った。
それが、すべての始まりだった。
今でこそ型月といえば『Fate』『FGO』。
でも、私にとっての型月は、あくまで月姫から始まった。
• 異形の者と人間との交錯
• どこか現実からズレたような台詞回し
• 厨二全開の世界観の中で揺れる、生々しい感情
そして何より、アルクェイド・ブリュンスタッドという存在。
彼女はただのヒロインではなかった。
作品そのものの象徴であり、型月という名の始原そのものだった。
2000年代後半。
ニコニコ動画やYouTubeの登場で、ギャルゲーは爆発的に可視化された。
リトルバスターズのOP動画が流行り、歌い手なる新人類がマブラヴの未来への咆哮を歌い、ギャルゲーのMADや実況が大量に出回った。
それまで「こっそりプレイする秘密の娯楽」だったギャルゲーが、メインカルチャーに躍り出た。
その時点で、私の中にある種のギャップが生まれた。
「俺たちの文化が“消費される側”に回った」という、言いようのない違和感。
そしてそれは、後の『Fate』大衆化で決定的になる。
まずはFate/stay nightがヒットし、続くFate ZEROやFGOで型月は一気に国民的IPとなった。
セイバー=アルトリア・ペンドラゴンは顔となり、型月といえばセイバーになった。
でも私は叫びたい。
違うだろ。
型月のヒロインは、セイバーじゃない。アルクなんだよ。
月姫の頃の空気、アルクェイドの魅力、あの厨二で純粋な感情のぶつかり合い。
それを知らずに、「Fate最高!FGOすげえ!」と語る人たちに、どうしようもない“やり場のない怒り”を抱えてしまった。
それは文化の記憶が書き換えられていく痛みだった。
私は『月姫』が大好きだった。
それゆえに、今の型月が「違うもの」になってしまったように思えて、受け入れられなくなった。
冷静に考えれば、世代のアップデートに合わせて進化しただけなんだと思う。
新しいファンを獲得して、会社としても成功している。
それでも、「自分が愛した型月」はもうどこにもいないと思ってしまう。
それはたぶん、 「かつて確かに存在した熱量」が置き去りにされる恐怖なんだと思う。
私は、昔の型月が好きだった。
セイバーよりアルク。FGOより月姫。
スマホじゃなく、深夜のいつ強制終了するかも分からない無骨なPCの前で、ただ一人で物語を読んでいた頃が、好きだった。
今の型月を好きな人たちを否定する気はない。
でも、自分の中にあるこのめんどくさい気持ちも、嘘じゃない。
それでいいと開き直っている。
なぜなら、ギャルゲー文化の厚みは、こういう「めんどくさいおっさん達」が支えてきたからだ。
あなたがFateから型月を知ったのなら、それはそれで幸運だと思う。
でも、もし機会があれば、月姫にも触れてほしい。
「これが始まりだったんだ」という空気を、少しでも感じ取ってもらえたら、本当に嬉しい。
そして、かつての私と同じように、画面の前で物語に心を揺さぶられてくれたら――
それこそが、今も私がこんなブログで“型月”を語り続ける理由なのだ。