学生時代の私にとって、「麻枝准」は神だった。
20年以上前に、初めてプレイしたのは『Kanon』。
月宮あゆのシナリオで、私は人生で初めて「物語に震えるほど感動して放心状態」という体験をした。
記憶、願い、別れ――そんな曖昧で切ない感情を、どうしてこの人はこんなに深く描けるんだろう。
心の奥に突き刺さって抜けなかった。
間違いなく、あの時私は「麻枝准に脳を焼かれた人間」になったのだ。
麻枝准のゲームは人生だった
それから『ONE』『AIR』『CLANNAD』『リトバス』と、作品を追いかけて泣いて笑って、気づけば私は一人ではなくなっていた。
麻枝准のゲームを通じて、友人ができ、人と会話ができるようになった。
友達とコミケに行く軍資金が欲しくて、アルバイトもできるようになった。
仕事を通じて大学の卒業後は、あれほど無理だと思っていた正社員にもなることが出来た。
きっと、彼の物語がなければ、大学を卒業した私は引きこもっていたと思う。
麻枝准は、間違いなく私の人生を変えてくれた人です。
ヘブバンとの出会い
それから長い年月が経ち、『ヘブンバーンズレッド』――いわゆる「ヘブバン」も、久々に麻枝准の話が読めると思い、わくわくしながらプレイしました。
久々に見るKeyのロゴだけで懐かしさのあまりに溜息が出る。
でも、不思議なことが起こりました。
あの頃のように麻枝調の文章が頭に入ってこない、 寒いギャグに白けてしまい、ストーリーも良いのは分かるけどなぜか今ひとつ心に刺さらない。
「だーまえ、こりゃ令和のノリじゃないだろ……」なんて、あれほど讃えていた人に冗談めいた苦言を投げる自分がいる。
でも、ヘブバンはヒットしました。たくさんの人に愛されている。
当然なんですよね、あんなにクオリティが高くて、天才ライターがシナリオを手がけているゲームが売れない訳がない。
感受性が変わってしまった
それを見て感じたとき、私は気づいたんです。
変わったのは、麻枝准ではなく、自分の方なんだと。
もう私の心は、かつてのように誰かに救いを求めてはいない。
あの頃のように物語に浸る余白もない。
真面目に仕事をして愛想笑いをして、
節約して貯金をして投資をして、
現実の女の子に恋をして振られて、
マクドナルドで株主優待券を使うときはちょっとだけ得意げになったり…
そんな麻枝准の描く物語とは真逆のつまらない現実を生きている。
そして、つまらない現実を心地よく感じてる自分がいる。
麻枝准からの卒業
たくさんのアプリをアンインストールしてきたけれど、ヘブバンのアンインストールは、まるで卒業式のような気持ちでした。
「もう麻枝准では泣けない」――その事実に切なさを感じながらも、
「たくさんの素晴らしい思い出を、ありがとう」と感謝の気持ちが溢れてきた。
今の自分にとって、ヘブバンは「救い」ではなかった。
だけど、今の誰かにとってのKanonかもしれない。
そう思うと、やっぱりぐっと来るものがある。
麻枝准に出会い、支えられ、助けられたかつての私。
そして、卒業という名の別れを受け入れた今の私。
麻枝准の物語に出会い、心を救われ、人と繋がり、
人生の基盤を少しずつ作ってきた。
そして、気づけばもう「物語の中に生きる人間」ではなく、「物語を見つめる側の人間」になっていた。
それは寂しいけれど、誇るべきことかもしれない。
これはきっと、私にとっての「麻枝准からの卒業式」だったんだと思う。