38歳になった今、ふとした瞬間に若かった頃の自分を思い出すことがあります。
特に春、新卒の若者たちが新たな環境に飛び込んでいくこの季節は、自分が遠回りしたあの数年間を強く意識させられます。
挫折とコンプレックス
25歳の頃、新卒で入社した銀行を辞めました。
営業の仕事が自分には合わず、精神的にも限界を感じての決断でした。
その後、約2年にわたって公務員試験に挑戦することになります。
20代の貴重な時間を2000時間以上も試験勉強に費やす日々、当時の自分にとっては孤独で不安定な時間でした。
結果から言えば、筆記試験は通過できるものの、面接で落選。
最終面接まで進んだ自治体も有りましたが、合格を勝ち取ることは私にはできませんでした。
なぜ落ちたのか分からないまま、自分を納得させる理由も見つからず、悔しさだけが残りました。
そしてその悔しさは、いつしか「公務員に対するコンプレックス」へと変わっていきました。
落とされて当然の人間だった
しかし、それから10年以上が経った今、はっきりと分かります。
あのときの自分が面接に通らなかった理由が。
銀行での挫折感、公務員になりたいという気持ちの裏にあった逃避的な動機、周囲を見返してやりたいという負の感情、模試や筆記試験で結果を出した事により芽生えた妙なプライド。
精神的にも幼稚で未熟で、自己中心的な面も相当にあった。
仮に運良く合格していたとしても、あの頃の自分では、公務員として長くやっていくことはできなかっただろうと、今は思います。
むしろ、あのとき自分を不合格にした面接官の目は確かだったんだなと、感心するほどです。
夢を見るのはタダ。しかし、利息は発生する
公務員浪人のような「浪人生活」の怖さを、身をもって体感しました。
というのも、浪人中というのは、実際には人生が止まっている状態なのに、「勉強している」という事実によって“自分は前に進んでいる”と錯覚できてしまうのです。
努力をしているから、前進していると思い込みやすい。
でも、現実には結果が出なければ社会的には変わらず“無職”のまま。
時間だけが過ぎていきます。
それでも人は、自分が無意味な時間を過ごしているとは認めたくない。
だからこそ勉強時間や模試の成績を頼りに、自己肯定感を必死に維持しようとする。
これは浪人生活に限らず、何かに固執してしまったときに陥りがちな「思考の罠」なのかもしれません。
幸せの道は一本だけじゃない
その時期を経て、今はまったく別の仕事をしています。
公務員のように周囲に羨ましがられる仕事ではありませんが、自分なりにコツコツと働き、少しずつ貯金を増やし、心も暮らしも以前よりずっと穏やかです。
仕事には真摯に取り組み、余暇は趣味の将棋やアニメ漫画を楽しむ、程よく両者を両立させられるようになりました。
公務員ではありませんが、あの時手に入れられなかった「安定感」は、別の形で手に入れられた気がしています。
もちろん、あの頃の自分が違う選択をしていれば、また別の人生があったかもしれません。
でも、「もしも」を追いかけても、人生に正解はない。
失敗を通じて何を学ぶかが大事だし、過去を振り返って今の自分が誇れるなら、それで十分なんじゃないかと、長い時間の中で思えるようになりました。
人には出来ることと出来ないことがある
また、以前に出場した将棋の団体戦でのこと。対戦相手は某役所のチームでした。
結果としてチームは負けてしまったのですが、私は運良く、相手チームの“大将”に勝つことができました。
ただ、不思議と嬉しさよりも、相手に対する尊敬の気持ちの方が強く残りました。
忙しい公務員として働くかたわらで、将棋にも真剣に取り組み腕を磨いている姿勢に、心から「すごいな」と感じたのです。
きっと若い頃の自分なら、「お役人様のくせに民間人に負けるなんて、ざまあみろ」と、恥ずかしいくらい浅はかな優越感に浸っていたでしょう。
でも、今は絶対に違います。
人にはそれぞれ、得意なことや不得意なことがあって当たり前。
勝負の勝ち負けは、その一瞬の出来事に過ぎません。
自分の小さなプライドを捨てて、相手の頑張りを素直にリスペクトできるようになったのは、あの悔しい公務員コンプレックス時代を経たからかもしれません。
昇華
この春、役所で新しいスーツに身を包み必死にメモを取る、フレッシュな新卒公務員たちの姿を見かけました。
10数年前、自分が目指して憧れた場所に立つ彼らを見て、かつての自分を思い出し、少しだけ胸がざわつきます。
でもそれは、羨望でも嫉妬でもなく、「俺も頑張ったよな」という、ちょっとした自分への労いに近い感情です。
遠回りだったけど、あの時間があったから今の自分がある。
そう思えるようになった今、ようやく心から前に進める気がしています。